第六章 折れた船が、やがて向かう

 

 

雪の影響で冬希が美瑛についたのは予定より少し遅れていた。

函館から一度札幌に戻った冬希は1日札幌で休息をとると、次の目的地美瑛へと向かっていた。

改札を出て、駅の外へ出る。道路は除雪されていたが所々雪が残っており、凍って滑りやすくなっている箇所もある。

ずっと長い時間電車に揺られてきた冬希の体は少し疲れていた。しかし、思いのほか心は明るい、今日はここで待ち合わせをしているからだ。

冬希はあたりを見回していた。

「藤堂さん」

名前を呼ばれた方へ冬希は体を向ける。

駅の近くに植えられている雪で真っ白な花壇がある道から、一人の女性が早足で向かってくる。

「お久しぶりです。藤堂さん」

「ごめんね、神余さん。少し待たせちゃったかな」

三日ぶりに再会した神余悠里は、首まである白いセーターに、膝までのスカート。紺色のダッフルコートを羽織り、白い息を吐きながら少し肩で息をしている。

「今日はありがとう、付き合ってもらって」

「いえ、そんな、そんなことないですよ」

悠里はどこかうれしそうだ。しかし、天気は良いが今日の北海道も冷える。そのせいか顔色が少し白く見え、冬希は気になった。

「すいません、寒いですよね。車あっちに停めてありますから」

確かに日はあたるが風は冷たい。冬希と悠里は車がある駐車場へと移動することにした。

 

冬の北海道は路面が滑るため、注意が必要だ。それは初めて北に来た人間でなくとも。

そんな中、悠里は慎重に、それでいてどこか慣れた手つきでハンドルを動かし、ハッチバックの車を走らしていく。

冬希には少し以外だった。自分の勝手なイメージで失礼かもしれないが、悠里と車があまり冬希の中では結びつかなかった。悠里は高校卒業とほぼ同時に免許を取得したらしく、運転歴も長いそうだ。冬希は免許すら持っていない。

前の信号が赤色に変わり、車が停止する。

「雪のため行けないところもあるのですが、冬の美瑛は綺麗ですよ。純白の白雪が」

「そうなんだ、楽しみだよ。それも今日神余さんが、一緒に周ってくれるおかげだよ」

「い、いや私こそ・・・その・・ご、ご一緒できて・・・」

悠里は下を向いてモゴモゴしている。

「あ、あの・・・神余さん」

「は、はい!」

「あ、あの前、青・・・・」

信号はすでに青色へと変わっていた、しかし冬希たちの車は止まったままだった。

「す、すいません」

「い、いやそんなにあせらないで・・・」

車は静かに交差点を発進した。

 

 

函館から長い時間かけて札幌に戻ったが冬希は悠里とは会えなかった。悠里は冬希が小樽を経った日に、親戚のいる富良野へ向かっていた。

小樽、函館と旅をした冬希は札幌に戻ったら悠里に会いたいと思っていた。悠里とのメールは何も知らない土地を行く冬希にはうれしい文字の会話だった。悠里が教えてくれた北の歩きかたや、何気ない話は冬希の心を暖めた。

そんな時悠里からある提案があった。悠里が美瑛を車で案内してくれるというのだ。

帯広からさほど離れておらず、美しい風景が広がる美瑛に悠里は何度も訪れたことがあり、地理にも多少詳しいというのだ。

それは冬希にもありがたい話だった。美瑛には様々な景色が堪能できるポイントが存在するが、その多くは距離が離れているところも多く、雪の関係もあり徒歩では移動が厳しいと考えていた。

「今日はこちらにお泊りになるのですか?」

「うん、明日は知床に向かうよ」

「飛行機は使わないのですよね、かなり長い移動になりますね」

「そうだね、でも鉄道の旅というのも楽しいかな」

正確に言えば冬希は鉄道の旅を楽しみたいわけではない、仁の影響だ。

仁は北海道を回るのに航空は利用せず、鉄道や車を使っていた。かかる時間を考えると飛行機のほうが効率的だが、仁は電車を利用していた。

冬希も仁に見習い今回旅行では鉄道で移動することにした。仁が鉄道を多く利用した理由は冬希にははっきりとは分からないが、仁も窓から眺めるその土地ごとに変わる風景が好きだったのではないかと思っていた。

冬希も鉄道での旅は嫌いではなかった。体は少し疲れるが、外の風景を眺めたり、移動の時間、仁の手帳を読んだり今まであまり聞かなかった音楽を聴いてみたりすると新しい楽しみや発見を感じた。それに、この旅のことをじっくりと考えることも出来た。

冬希は窓の外を眺めた。周りにはさっきまで見えていた人工的な町並みはもうすぐ見えなくなり、白く染まった北海道の大地へと変わっていく。

(北海道・・・北か・・・・)

小樽と函館を出て以来、ハンや智也達、そして式那のことが冬希の中から離れることは無かった。ふとした時に、彼らのことが冬希には浮かんだ。

「冬希さん・・・・あの旅先でなにかありましたか?」

「えっ!!」

冬希は突然の悠里の質問に動揺してしまった。悠里からそのような質問が出るとは考えても無く、そして確かに旅先で何かが出会った。

「別になにも無かったよ、いろいろ回れてよかったよ」

嘘をつくつもりは無かったが思わず冬希はごまかしてしまう。

「そうですか・・・・・」

そこで少し会話が途切れてしまった。もしかしたら悠里は冬希の動揺を感じとったのかもしれない。

まだ出会って間もないが冬希には悠里がこの北海道では1番近くに感じる人だった。

それは、式那という存在が二人を繋いでくれているようにも思える。

「明日には美瑛を経つのですか」

先に口を開いたのは悠里だった。

「うん、明日は知床へ。長い移動になるよ」

「・・・・知床ですか・・・遠いですね」

悠里は少し寂しそうに呟いた。そんな悠里を見て冬希もまた少し寂しさを感じた。


駅から車で数分。もう周りは白い平野が広がっていた。

車の窓から見るだけでも、冬希にはその白さは目が眩みそうで、悠里が一緒にいるにもかかわらずつい話すのを忘れてしまう。

「除雪されていない所はちょっと車では行けません、マイルドセブンの丘など見ていってほしかったのですが」

「そうか、残念だね」

「美瑛は丘の街なんです。大きく広がる平野を丘から眺めたり、名所となっている木を見ることができます」

「丘の町か、ステキなフレーズだね」

「はい、式那ちゃんもとても気にいっていました」

「式那さんが」

「はい、一度一緒に美瑛に来たことがあります」

車は徐々にスピードを落としていく。

「もうすぐ北西の丘展望台です。美瑛が見渡せる丘の一つです」

 

「夏はよく、こっちの家で過ごしていました」

上の展望まで歩きながら悠里は懐かしそうに話していた。

「式那ちゃんと出会って、1度夏休みにここへ来たことがあったんです」

周りには雪が残っており、滑りやすいところもある。寒さがあるが二人はゆっくりと歩いていた。

「式那ちゃんと一緒でとても楽しかった、私は夏になるといつも富良野やここへ来ます。それがいつもとは違う旅行になりました」

悠里の顔はどこか幼く見え、懐かしそうに話している。

「私は家族以外と、友達と一緒に旅行するなんて初めてだったんで舞い上がってしまって・・・」

そのとき、悠里の顔が少し悲しそうな顔になる。しかしそれは一瞬のこと。

「父の車で夏の美瑛を回りました。丘や公園。有名な木を眺めたり、私も式那ちゃんもはしゃいじゃって」

二人は上まで上がりきると丘の上から景色を展望できる所まで向かった。周りには人はほとんどいない。大きな三角の展望台は雪で化粧をしており、白く変化している。

「この展望台にも来ました。あの時は今みたいに真っ白ではなく、緑の丘でした」

二人は展望台から少し離れたところに立った。展望台には上れないがここからでも少しは景色を眺められる。

天気は少し雲も多いが今は太陽が顔をだしており、さすがに平野や丘を全て眺めることは出来ないが日の光が射し、白い遠くの山々が輝いている。

「そのとき、式那ちゃん、藤堂さんのこともよく話していました」

「俺のことを?」

「はい、式那ちゃんこんな景色見たこと無いって、前にいた東京にはこんな広いところはないって。それを・・・・・それを藤堂さんに見せてあげたいって。藤堂さんがいつか北海道に来たらここに連れてきたいって・・・・」

冬希の中に式那の楽しそうな顔が浮かぶ。式那は自分の喜びや新しい発見を冬希にも分けてくれた。近くを探検したり、新しい本や玩具があるといつも冬希のところへ来てくれ、一緒に笑った。

(冬ちゃん、楽しい?)

幼き式那の声が浮かぶ。式那はやさしい子だった。

式那はもういない。そして式那が冬希と着たいといった場所に隣にいるのは悠里。寒いのか少し顔が白い悠里の横顔を見ると冬希は少し寂しく、そして複雑で不思議な感じがした。

「私にはかけがえの無い思い出です。・・・・・式那ちゃんも・・・」

遠くを見ている悠里の瞳は寂しげで、何を見ているのだろうか・・・・冬希にはそれが分からない。

「式那ちゃんにもいい思い出であればいいなぁ」

その寂しげな瞳で悠里は呟いた。

 

 

 

展望台から再び車を走らせ、二人はケンとメリーの木へと向かった。車が丘の上のほうへ上っていくと、そこから広がるのは一面真っ白な雪の草原であった。

(雪だ・・・・)

北海道にきて毎日見ているものだが、思わずその景色に見入る冬希を見て、悠里は静かに車を止めた。

二人は車を止め外に出る。

冬希はその壮大さに圧倒された。自分の視線に広がるのはどこまでも広がっていそうな、自然の白に装飾された平野。それは先ほど見た景色よりさらに広がり、美しかった。

冬希は黙ってその景色を見ていた、そして脳裏にある光景が浮かぶ、冬希は思い出していた。そして久しぶりに見たのだ、地平線を。

昔、仁に連れて行ってもらったモンゴル。そこにも広がっていた、壮大なる草原が、すいこまれてしまうようで怖くなるくらいの、遠く遠く広がる空と地平線が。

それを冬希は思い出していた、いや浮かび上がっていた。忘れることが出来ないあの景色、しかしモンゴルの地平線はそれからの冬希の生活とはかけ離れていた。忘れることなど出来ない、しかし自分の中に風化し、おぼろげになっていく思い出をとめることは出来ない。

しかし、ここはあの景色に近いものが、通ずるものを感じることが出来る。再び目にした大きな大地は再びあの衝撃を甦らしていた。

冬希は自然に目頭が熱くなっていく

冬希は何もいわずただ、地平線を見つめていた。

「藤堂さん・・・・?」

「えっ!」

冬希は自分が悠里のことを忘れ一人、思い出に浸っていたことに気付いた。横に並んで景色を見ていた悠里が心配そうに冬希を見上げている。

「あの・・・藤堂さん・・・」

「い、いや別になんにもないよ」

冬希は目頭が熱くなっていたのをごまかそうと慌てて、悠里の言葉を遮った。

「そ、そうですか」

「き、綺麗な景色だよね」

冬希は悠里からは顔が良く見えないように少し顔を斜めに向けていた。悠里に目の潤んでいる顔を見られたくはなかった。

「そうですね、初めてここに来たときは圧倒されました」

幸い悠里は気がついてないようだった。

「どこまでも、続いていそうな景色を見ていると、なにか吸い込まれそうで・・・」

潤んだ瞳が渇くのを冬希はじっと待っていた。

「少し、怖くなります」

冬希は悠里のほうへ少し顔を向けた。地平線を見つめる悠里。整った顔立ちだがまだ少し幼さが残る顔、白い光が映りこむその瞳は澄んでいて北の冷たい風が彼女の髪をなびかせる、時折白い息をはきながら日がさしてきた雪の平野に立つ姿は美しく、この大地と同じぐらい神秘的に見え、冬希は見入ってしまう。

 たとえそれが寂しげに見えたとしても。

(いい思い出・・・・・か)

冬希は気付いた。それは想いだすということはそれは悲しいことでもあることを、思い出の土地が与えてくれるのは良い記憶だけではなく、それが過去のことだということ、戻ってはこないもの、失ってしまったものもあるという今の自分の現在を再確認させる。

冬希は今日、悠里がどこか寂しそうにしていることがある理由に気付いたのだ。

「そうだね・・・・ここは広く、大きすぎる」

そう呟いた冬希にも懐かしさという寂しさがこみ上げてきた。それはこの平野を見てはしゃぐ式那と悠里を思い浮かべただけでなく、この景色を見て思い出していた子供のころの記憶、それは今は得ることの出来ない父、仁との思い出。この現実が冬希の中からこみ上げ、冬希の目頭を熱くする。

「こんな景色を式ちゃんは藤堂さんに見せたかったのだと思います」

「そうかも、僕もそんな気がする」

それから二人はしばらく遠くの地平線を見つめていた、丘の上に立つ二人に風が吹き抜ける。

「寒くない?そろそろ行こうか、」

「はい大丈夫です。私、北国育ちなので、寒さには結構強いんですよ」

悠里は笑顔だが、風は冷たい。顔色も白いように冬希には見える。

「ではそろそろ行きましょうか、丘の木たちを見に」

二人は車へと向う。そのとき冬希は考えていた、式那がこの美瑛の丘から何を見て、何を感じていたのだろう、冬希達のように何かを思い出していたのかもしれないと。

 

 

「そうだ。これを渡そうと思っていたんだ」

ケンとメリーの木、親子の木、そしてセブンスターの木。霧氷をきらびやかせ、白い雪をまといたたずむツリーの姿を堪能し、車を停め中で缶コーヒーを飲みながら一息ついていた所。冬希は隣の悠里にあるものを差し出した。

「これは・・・・・」

「小樽の工藝館で買ったんだ。お土産かな」

冬希が差し出したのは手の広ぐらいの梱包された小さな紙の箱。悠里は思いもしない冬希の贈り物に少々戸惑っているようだ。

「で、でもそんな、・・・悪いです。」

謙虚な悠里は突然の冬希の土産を遠慮している。奥ゆかしい悠里の態度に冬希は心が暖かくなる。

「そんなことないよ、メールでもいろいろ教えてくれたし。それに今日だって付き合ってもらっているし」

「今日は・・私も・・・」

「神余さんに買ってきたんだよ。だから受け取ってほしいな」

「あ、ありがとうございます」

冬希からおずおずと箱を手に取った悠里は、しばらくそのまま箱を見つめていた。

「よかったら、空けてみてくれないかな?」

「え、は、はい」

悠里は丁寧に包装の髪を外すと、箱の口をあけ、ゆっくり中に入っているものを取り出した。

「これは・・・・スズラン」

悠里が取り出したのは冬希が工藝館で選んだガラスのスズランのストラップ、冬希が目を奪われた赤いスズランだった。

「うん、とても綺麗な色だったから」

「綺麗・・・・」

車の窓から入る光がスズランを透き通らせ、赤をより潤わせている。

「この・・・スズラン、私知っています」

「えっ!」

「以前、テレビで見たことがあるんです。赤いスズランを」

きらきらと光るガラスのスズランを悠里は見つめている。

「何かの特集で見たのです。小樽の工藝館で働いているロシアから渡ってきた女性の話」

「ロシア・・・」

冬希の脳裏にハンの姿が浮かぶ。あのガラスのように透き通った青い目の青年が。

「この赤はその女性の故郷の・・・そしてここでの情熱の色なのだと」

「故郷の赤・・・・」

「この色を出すためその人は遠いこの地でがんばって・・・」

(ハンも言っていた、確かその人のことを知って・・・・)

「藤堂さん」

「はい!」

「本当にありがとうございます」

悠里の本当にうれしそうな顔で冬希に話しかけた。その純な笑顔を見ると心が熱く、自分の体温が自然と上がってくるのを冬希は感じていた。

「い、いや別に・・・そんな大した物でもないし、そ、そろそろ行こうか、冷たくなってきたし」

自分が赤くなってはいないかと焦った冬希はごまかすように言った。エンジンを切ってある車の温度は冬希の体温とは違い下がってきていた。

「そうですね、わかりました」

悠里は大切そうにスズランのキーホルダーを自分のバックにしまうと、車のキーを回した。エンジンがかかった車内には暖房の温風が回り始め車内の温度を少しずつ上げていく。

(情熱の色・・・か)

悠里は言っていた、あのスズランはそれを作った人の情熱の色だと、ハンは小樽でそれを見つけようとしているのかと。

「それでは出しますね」

「うん」

冬希は曇ってきた窓を手で拭くと外の景色を眺めた。そこには先ほどと同じ白い平野が広がっている。

きっとここの色は白なんだろう、もしかしたら緑かもしれない。それがこの土地で生きる人の故郷の色なんだろう。

(僕の色・・・・故郷はどんな色だったかな・・・)

冬希は答えが浮かばない、探したことすらない色をそんなことを考えていた。

 

冬の美瑛の丘を堪能した二人は、一度駅へと戻っていた、夕暮れに差しかかろうとしていた空は少しずつ茜色に変化してゆき、それからこの雪に染まった地平線を白から赤へと染めていくのを連想させる。

それは考えるだけで神秘的で雄大だ。

そんな景色を窓を眺めながら冬希は思い浮かべていた。駅へと向かう車内には先ほどからあまり会話がなくなっていた。

「明日はさらに北へ向かうのですね」

ふいに悠里が沈黙を破る。

「そうだね、知床へ向かうよ」

「知床は世界遺産にも申請された、自然に恵まれたところです」

悠里はじっと前を見ながら運転している

「冬は・・・・厳しいところも多いみたいです」

「そう・・・みたいだね」

仁が残した手帳の記述を読む限り、仁が写真を撮るために向かった場所は冬の北海道では厳しいところでもあるようだった。

「でも、向こうの人も協力してくれるみたいだし。父さんとは知り合いなんだ。」

冬希が知床で宿を取ったところは、以前仁が知床での撮影の際に拠点としていた宿で、電話で冬希が予約を取ろうした時。仁の息子だと分かるととても懐かしがり、喜んでいた。

そして冬希は思い切ってお願いしてみたのだ。仁が行ったところへ行きたいと。

仁が行った場所を知っていたのか、また冬の知床の厳しさを知っているのだろうか、最初は向こうも困惑気味だった。

「その日の様子しだいだけど、大丈夫そうなら案内してくれる話になっていて」

「それは・・・よかったですね」

「今はまだ雪が多いって、昨日のニュースで言っていたよ」

「そうですね、今年は多いほうだと思います。最近は暖冬も多く、雪が残らないこともありましたけど」

丘から下りてきて周りの大地も冬希たちと同じ目線で広がり始める。

「そこに何があるのですか?」

「なに・・・かな・・・実はまだ分からないよ」

「冬希さんのお父さんは写真家ですよね」

仁が残した旅のメモには聞くことが出来たと書かれていた。父が連れて行ってくれたモンゴルでも、仁は冬希にその言葉をかけた。洸次郎もたしかそんなことを言っていた。

しかし冬希にはその意味がわからない。

「分からないのに・・・ここまで来れるなんて」

車内は暖房が効いていた、しかし寒いのだろうか、悠里の横顔が厳しめに見える。

「冬希さんはお父さんに似ているのかもしれませんね」

 

美瑛の町に戻った二人は少し早い夕食をとることにした。

駅に近いレストランで二人は食事をとりながら様々な話をし、盛り上がっていた。

過去のことから今のこと。東京での式那の思い出や美瑛で悠里との思い出。初めて会ったときから二人で式那のことを話していたがその話が尽きることはなかった。特に美瑛は悠里にとって式那との思い出の地ということもあり、会話も弾んでいた。

「神余さんは毎年こちらのほうへ来ているのですか」

「はい・・・・毎年に近いです・・・」

その時悠里の顔が少し暗くなった。陰りが見えたように感じた冬希は話題を変えようと

する。

「でもここは綺麗なところだね、とても広く感じたよ」

「はい、でも北海道にはまだ広い景色はいっぱいあります。私も行ったこと無いところもありますけど」

「神余さんはずっと北海道で暮らしているんだよね、いろいろ行ってみたりはしていないの」

「あまり・・・やはり北海道は広くて・・・」

「神余さん?」

まただ、また悠里の顔が寂しげに見えた。

冬希は知らぬ間に悠里を傷つけてしまっているのではないかと不安になる。思えば二人は出会って数日。実際に顔を会わせているのはほんのわずかだ。

そんな時式那が二人をつないでいる。

「でも・・ここも少し変わりました」

悠里が窓の外を見ながら言う。

「式那ちゃんと来たときはもっと・・・殺風景というか・・・シンプルでした」

駅から近いこの場所は車の便や綺麗な建物、駐輪場や観光案内所など観光地美瑛の入り口にふさわしいように整えてある。

「ここに来たのは実は久しぶりです。」

悠里は外をまだ見ている。

「ここは、式那ちゃんと来た、唯一の場所です。・・・だから・・一人であまり来ることがなかったんです」

「今日藤堂さんとここに来て、式那ちゃんに会いに来られた藤堂さんとなら・・・・」

悠里は視線を窓から逸らそうとしなかった。冬希の顔を見ないようにしていたのかもしれない。その横顔はまた昔のことを思い出しているのだろうか、冬希に表情を読み取られないように気を使っているのか、出来るだけ感情を顔に出さないようにしているようだ。

それが冬希にはとても悲しげに見える。

「私・・・・今日知りました。私、怖かったんです。ここに来て悲しくなる自分が。それがどうにもならないのが」

冬希は薄々感じ取っていた。美瑛の景色を見ていたときの悠里のどこか寂しそうな横顔。

ここの綺麗な風景と思い出、そこに足りないものがある。その現実が悠里には悲しすぎたのだ。ここに来たらそれに向かい合わなければならない。

それは冬希にもあるものだ。式那、それに仁。仁が死んでから冬希はあまり仁のことを思い出そうとはしなかった。仁がいない現実に押しつぶされてしまいそうで怖かったから、しかしそれは難しいことで、夜一人涙を流した。

冬希が今のように向き合えるようになったのには時間が掛かった。

もしかしたら悠里はまだそれに向き合えていないのかもしれない。

「神余さん・・・・」

窓の外を見つめる悠里に冬希は声をかける。しかし次の言葉が出てこない。声をかけなければ、そう感じ声をかけたがそこから続く言葉が見つからない。

「はい、」

「・・・・そろそろここを出ようか」

少しの沈黙のあと冬希がやっとだした言葉はそんなありきたりなものだった。

「そうですね、行きましょうか」

悠里は窓から視線をはなすと冬希の方へ向き合った。控えめに微笑むその表情は、明るく見え、さみしさは見えない。いや見えないようにしていたのかもしれない。

「その前に、ちょっとまってください」

悠里はそう言うと横のイスに置いていた鞄に手をのばした。

「あ、あれ?」

悠里は鞄の中を覗き込み、何かを探しているようだ。

「どうかしたの」

「い、いえ別に・・なんでもないです」

悠里は平気そうに振る舞い、では行きましょうかと、席を立った。しかし、先ほどの悠里の同様ぶりを見ていた冬希は不安になる。冬希は悠里を引きとめようとするが、悠里はそんな冬希から逃げるかのように伝票を掴むと早足でレジへと行ってしまう。

(神余さん・・・?)

悠里は会計を一人で済ますと、先に外へと出て行ってしまった。

 

日が暮れた美瑛の町を、二人は並んで歩いていた。

レンガで埋めてある駅前の街道から歩く。車はレンタカー屋へ返したが、もう少し美瑛を回ることにした。初めは駅の近くの店や街角を見て歩いたが、そのうち特に目的もなく二人で歩いていた。

二人の会話はほとんど無くなっていた。日は暮れていたがまだそれほど遅い時間ではないため街道沿いにある店からの灯りで道は明るいが、夜になりかなり冷え込んできた。

「寒く・・無いですか?」

沈黙が気まずくなり冬希は悠里に声をかけた。北海道育ちの悠里でも冷えてきているだろうとは予想できたが冬希には他の話題が見つからなかった。

「・・・・・・」

しかし悠里からの反応は無かった。

「神余さん?」

「はい!」

悠里の顔は寒さのためかかなり白くなっていた。

(神余さん、疲れたのかな・・そういえば歩くペースも遅くなっているし)

「そろそろ駅に行こうか」

「え・・・・はい」

悠里は少し残念そうに答えた。しかしそれより冬希には悠里の体調が気になる。

「神余さん、大丈夫?」

「は、はい。なんともありません」

(なんとも?)

冬希は必死になっていた悠里が気になったが、無理をしているのかもしれないと感じ駅へと向かうことにした。

駅まで遅めの歩調で歩いた。悠里の体調に合わせたつもりだったが、その間会話らしい会話は無かった。

明日から冬希は知床の方へと向かう。おそらく今回の旅で一番長く、険しい移動と環境になるだろう。

(またしばらく会えなくなるな)

残りの殆どの時間を知床に使うことになる。そのためもう悠里と直接会う時間はほとんど無くなるであろう。

なのに冬希は悠里に気の利いた言葉や話のはずむような会話が浮かんでこない。悠里は自分の時間を割いて冬希に付き合ってくれているというのに。

初めて北海道に来た日、式那の墓標で出会った時から悠里は冬希に親切にしてくれた。それは悠里にとって式那は親友とも呼べる人であり、式那から冬希のことを聞いていたため、初対面であったにも関わらずそう接してくれたのだと冬希は考えていた。

冬希は今、自分が不甲斐なく感じている。

二人が歩いていたのは駅の周辺でもあったため、駅に戻るのに時間を要することは無く、駅に着くのにはさほど時間はかからなかった。

冬希と悠里は駅の改札口まで向かう、冬希は駅の近くのホテルで一泊するが悠里はこのまま電車で美瑛を離れなければならない。

二人は改札口の前で立ち止まった。夜になりまわりの空気が一層冷たくなっており、駅の中でも寒さがある。

冬希は別れの言葉だけでなく、お礼とそして他にも何か悠里に伝えようと思っていた。それは悠里も同じなのかもしれない。しかし冬希がその言葉を頭の中で考えがまとまらないうちに別れの場所についてしまった。

冬希は悠里と向かい合う。

そのとき冬希は悠里の異変に気がついた。

悠里の顔色は白く息が荒い。顔は下に伏せぎみで、冬希の肩ほどしかない悠里の体は上下に肩で息をしているようだ。

(疲れとかじゃない!?)

「・・・どうかしましたか?藤堂さん」

冬希の視線に気付いたのか、悠里は顔を上げる。笑顔で冬希に話しかける悠里の顔は自分はどこも苦しくない、そう訴えているようだ。しかしその表情が逆にぎこちなく、自然の笑顔とは違う、作りを出してしまっている。

冬希の視線に気付いたのか、悠里は顔を上げる。笑顔で冬希に話しかける悠里の顔は自分はどこも苦しくない、そう訴えているようだ。しかしその表情が逆にぎこちなく、自然の笑顔とは違う、作りを出してしまっている。

「神余さん、体調が・・・?」

「はい、なんでしょうか」

元気そうに見せながら喋るも、息が荒く声が弱々しい。

「神余さん、どこか苦しいの?大丈夫?」

「いえ・・そんなことは」

「うそだ」

冬希は自分でも驚くほど強く、きっぱりとした口調で言った。

「とりあえずどこかで休もう」

「・・・・・・」

悠里はうつむいて何も答えない。

「・・・・神余さん?」

悠里の呼吸は先ほどより荒く、完全に肩で息をしている。

胸の辺りに手を押さえている悠里の様子はかなり苦しそうに見える。

悠里は答えないのではない、答えられなかったのだ。

「神余さん!大丈夫、神余さん!」

あわてて悠里の顔を覗き込む。汗を顔に滲ませている悠里は冬希の声が聞こえているのか、

それとも冬希を心配させまいと、ただ反射的に必死に言葉を発していただけなのか、大丈夫です、と呟いている。

冬希の声で、構内にいた他の人たちも冬希達の異変に気付き二人のほうへ視線を向けていた。

「神余さん・・・」

思わず悠里の肩に手を置く冬希。大きく上下に揺れる悠里の体は落ち着かない。

「はっ・・はっはっ・・」

冬希の声にも反応していない、もうそんな余裕も無いのだ。

冬希は頭がパニックになりそうだった。先ほどから声をかけても反応が薄くなっている悠里をどこかで休ませて落ち着かせるか、それともすぐに救急車を呼ぶべきか。冬希の頭のなかで様々な考えが回るが一つにまとまらない。

冬希はうずくまり始めた悠里を支えながらただ必死に声をかけ続けていた。

 

 

白い静かな空間に、悠里は横になっていた。

市内の市民病院、急患として運ぶ込まれた悠里の様態は安定し、今はベッドに横になっている。

悠里への処置が行われる間、冬希は診察室の外の廊下にある長椅子に腰をかけ、ずっと考えていた。

今日一日、初めが元気そうに見えた。車でいろいろなところを周り、話した。楽しい一日で終わるはずであった。

しかし、悠里はいま病院のベッドで横になっている。駅ではとても苦しそうだった。

(いつ・・・からだ)

いつから悠里の体調が崩れたのか、自分はその変化になぜ気付かなかったのか。もっと早く気が付いていればこんなことにはならなかったのではないか、考えれば考えるほど冬希は自分の情けなさと後悔の念が押し寄せてくる。

扉の開く音がしうつむいていた冬希は顔を上げる。診察室から医師らしき人と看護士が出てくる。

「付き添いの方ですか」

「先生・・・・あの神余さんは・・・」

「大丈夫です。今薬が効いてきたので安定しています」
「薬・・・・」
「よろしければどうぞ」
医師は冬希をいま出てきた診察室へと促す、冬希は立ち上がると医師の後に続いた。
診察室に入ると冬希は進められて椅子へと腰をかけた。
医師の先生が冬希の正面に向かい合う形で座る。それはまるで診察を受けに来た患者と先生のようだ。冬希から見て左奥、先生が座っているほうにはパソコンが設置されている机があり、右奥には診察用の白いベッドが置いてある。
(神余さんが・・・いない)
「神余さんは今隣の部屋で休んでいます」
よく見ると隣のほうにドアがある。診察室と隣接して患者が一時的に休める部屋があるようだ。
「札幌の大学病院とも連絡がとれ、処置のほうも大丈夫です」
(札幌?)
「藤堂さんは神余さんの・・・・?」
「えっ・・・・」
冬希は一瞬返答に困る。もしかしたら恋人同士に見えたのかもしれない。
「友人です。自分はこちらの者ではないので、今日は美瑛を案内してもらっていました」
「そうですか・・・・」
「あの、神余さんは・・その・・・どうして・・」
「・・・・・神余さんのプライバシーもありますので・・・」
「そうですか・・・神余さんとは話せませんか?」
「・・・・少しだけなら、薬も効いてきて落ち着いていますが疲れているようですので」
悠里の病状がどのようなものかはわからないが、医師の話を聞くと命にかかわるような状態ではないようなので少し安心はしていた。
しかし、明日にはここを発つ予定の冬希はどうしても遊里に一目会いたいと思っていた。
案内され冬希は悠里が休んでいる部屋へと入った。
ベッドに横たわっていた悠里は医師の後ろから入ってきた冬希を見ると、複雑そうな表情で少し微笑んだ。
「神余さん、大丈夫・・・」
冬希は神余のほうへ近寄る、顔色は駅での白い様子からよくなっているように見え、呼吸も落ちついている。しかし疲れているように見える神余は元気はない。
「冬希さん・・・すみません・・・本当にご迷惑をかけて」
「そんな、神余さんは何も悪くないよ」
神余は冬希を見上げながら言う。その顔は不安げで、まだ体調が戻っていない神余はとても弱弱しい。
「では・・少ししたらまた呼ぶに着ますので」
気を利かせてくれたのか医師の先生は退室していった。部屋には悠里と冬希、二人だけとなる。
「・・・・・・・」
少しの間の沈黙。二人とも話すタイミングをうかがっているようだ。
「神余さん・・ごめんね。無理をさせて」
「えっそんな!」
冬希が沈黙を破る。冬希は今日、自分が悠里を無理させてしまったとずっと考えていた。
「僕につき合わせてしまったせいで・・・僕がこっちに詳しくないから、気を使ってくれたのに、僕は何にもできないで」
「そんな・・・・」
「僕は本当にうれしかったよ、式那ちゃんがいなくて、会えるかどうかわからない、憶えているかすらわからないと思ってたけど、式那ちゃんがもういないとわかったら、ここでは本当に一人なんだ、そう思えてきた」
悠里の前では「式那ちゃん」でも恥ずかしくはない。
「違うんです。藤堂さんのせいとかじゃなくて・・・私が悪いんです」
悠里は視線を冬希の顔からそらし、天井を見つめている。
「私が望んだんです、一緒にいたいと」
(一緒に!)
「私の不注意なんです」
悠里の顔は暗く沈んでいる。
「私が薬を忘れたからなんです」
「薬?」
「私・・・・生まれつき体が弱くて・・・定期的に薬を飲まないと、今日みたいなことになってしまうんです。特に子供のころはあまり外でも遊べなくて、いつも家の中でした。」
胸の辺りに手を置きながら話す悠里、寂しそうな顔で
「そのころは家の中にいることが多かったから、体のほうが良くなってきても外にはあまり出ない子でした。内向的で・・・友達も少なかったです・・・・そんな時、隣に越してきたのが式ちゃんの家族でした」
悠里の顔が少しだけ明るくなった気がする。式那の名前が出たからだろうか。
「式ちゃんとおじさんたちが家に挨拶に来たのが、最初でした、私、人付き合い苦手でしたから・・・式ちゃん、初対面の私にもいっぱいの笑顔で話しかけてくれたのに人見知りしちゃって・・・うまく・・話せませんでした」
(そうか・・・式ちゃん変わっていないな)
「それでも式ちゃんは毎朝学校に行くときに私を誘ってくれました、家が近いのもありましたが、学校でも仲良くしてくれました。式ちゃんは明るくて元気でしたからクラスにもすぐになじんで、式ちゃんと一緒にいた私も少しずつクラスの人と話せるようになりました」
懐かしそうに話す悠里、今まで冬希には話していない式那の、いや悠里の過去だ。
「式ちゃんとは休みの日にも一緒に遊んで・・・その時によく聞いたんです、以前住んでいたところの話・・・・藤堂さんの話を」
悠里は冬希の方に顔を向けた。顔は笑顔を作っているがその瞳には潤んでいる。
「前にも話しましたっけ、式ちゃん、藤堂さんの話をするとき、とても嬉しそうな顔をして・・・・」
「神余さん・・・」
「私は嬉しかった・・・・初めてできた友達が、そしてそれが式ちゃんだったのが」
懐かしそうに話す悠里、二人の幼いころの思い出話、それは悠里が式那と出会い変わっていけた綺麗な話に聞こえる。
しかし今の悠里を見ているとそうは感じ取れない。
涙をこらえるようにして笑顔を作る悠里はあまりにも痛々しい。
「式ちゃんの話を聞いていればわかります。式ちゃんにとって藤堂さんがどんなに人かって。いつも話してくれました嬉しそうに。本当に嬉しそうに・・・近くの公園での冒険や藤堂さんとお父さんとで行った自然公園、家の中でやったカードゲーム・・・・」
それは幼きころの冬希の思い出でもある。式那と一緒にいたころの
「あの日・・・・時間が空いて式ちゃんのお墓参りに行って、そしたらそこに藤堂さんがいて。・・・・式那ちゃんに会いに来てくれる人もうほとんどいなくて・・・あの時・・それに初めて見る方だったので思わず・・・・・」
そう・・・あの時冬希は悠里と出会った、悠里に声をかけられて
「変に・・・・思われたんじゃないんですか。初めての土地で急に声をかけられて・・名前まで・・・・・」
たしかに冬希は驚きはした。初めて来た土地、それも式那の墓の前で、見ず知らずの人に声をかけられ、自分の名前まで知っている。
「それでも私は藤堂さんだと思ったのです。ずっと・・・ずっと、式ちゃんが好きだった人だから・・・」
「えっ!」
「式ちゃんが直接言ったわけではありません、でもわかります、冬希さんの話をしている時の式ちゃんを見れば」
潤んでいた悠里の目から涙が零れ落ちる。声は詰まり、唇は震えながら必死に声を出している。
「式ちゃんは・・・どんな時も笑顔で楽しそうで・・・・でも藤堂さんの話をするときは・・・・」
「式ちゃんは私の一番の友達でした、私を変えてくれた友達です。そんな式ちゃんが好きな人・・・私もいろいろ思い浮かべるようになりました・・・そして・・・」
涙はもうとまりそうにない、悠里は喋るのも辛そうだ。それで悠里は話すのを辞めようとしない。何かを吐き出すように、いいわけ、いや贖罪なのかもしれない。
「私は・・・あこがれていました、藤堂さんのことずっと・・・・会ったこともない、話でしか聞いたことのないあなたに・・・・お、おかしいですよね、へ、変ですよね」
「あっ・・・・・」
冬希は何かを言おうとした、悠里を慰める、傷つけない言葉を、しかし冬希にはその言葉が思い浮かばない、自分のため、式那のため、悠里自身にぶつけるように、泣きながら喋る悠里に何もできずにただ冬希は立ちすくんでいた。
「だって・・・だって・・・・聞いたことしかないのに。なのに私は・・・・」
「いや、それは・・・・」
(それは・・・・なんだ・・・・)
「気持ち悪いですよね・・・他人なんかに」
(他人!)
何かを言わなければ、冬希にも悠里が苦しんでいるのはわかる。しかし今、自分が何か言えば悠里は今以上に傷ついてしまう。そのような気がして、それが恐くて、冬希はなにも言えなかった。
今の冬希にはただ悠里が落ち着くのまつしかできなかった。なにもできずに。

どのくらい時間が経っただろうか、時間としてはそれほど長くはないかもしれない、しかし二人にはとても長く感じた。
悠里も少し落ち着いていた。しかし顔は冬希のほうを向いてはいない、冬希に今の自分の顔を見られたくはないのだろう。
「コン、コン」
ふいに病室のドアからノック音がした。悠里は何も答えない、冬希のどうぞ、という声のあとドアが開くと、先ほど話していた先生と女性の看護士が入ってきた。
「そろそろいいかね、神余さんも疲れているので」
「・・・・はい」
しかし冬希の心の中には煙が漂うようなもやつきが残っている。それは悠里に何か伝えたいが何も言えない自分の不甲斐なさから来ている。
「そうですね・・・・・」
冬希は悠里のほうへ向く
「神余さん・・行くね」
悠里からの返事はない、しかし冬希にはかすかに悠里の頭が動いた気がした。
先生たちにお辞儀をすると冬希は部屋をでた。誰もいない病院の廊下を歩きながら冬希は拳を握り締めていた。
無力だった。今の自分はなんだったのだろうか。
仁が死んだとき、式那が亡くなっていたと聞いたとき。冬希は似たような感覚を覚えた。しかし似ていてもこれとは違う。
仁や式那は冬希ではどうすることもできない、あまりにも冬希の手の届かないところで起きてしまっていた。だが悠里はどうだ。
悠里は自分の前で、すぐ前で苦しんでいた、涙を流しながら。
悠里は見ず知らずに近い自分のためここ数日尽くしてくれたのに。
たとえそれが悠里が自分に負い目を感じていた涙だとしても、それをただ見ていることしかできない自分、考えても何も言葉が出てこない自分に冬希は心底情けないと思った。
(なんなんだ・・・・僕は)
仁の残した日記の意味はまだわからない、式那とはもう会うことはできない、そして悠里は・・・・
(傷つけてしまった・・・・?)
拳の力がさらに強くなる、爪が手のひらに食い込み始め、痛みが伝わってくる。
(なにを、いやなにもできない、なにも見つけれないじゃないか)
自分の不甲斐なさに頭がジンジンとし、目頭が熱くなるのを必死にこらえながら、冬希暗い廊下を歩いていった。

そして冬希は最期の地、知床へと旅たつ。







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