第五章 ふいに巻き込まれて
ハンとの出会いから一夜、その日の昼前には、冬希は小樽を発っていた。
もう一度、ハンに会いたいと思っていたが、寝過ごしてしまい、工藝館には立ち寄ることができなかった。
冬希の乗車している特急列車から海が見えた。天気は良い方ではなく、空は灰色に染まり、少し波が荒い北の海を、冬希は眺めていた。
冬希の頭からは昨日のハンとの対話が離れなかった。昨晩、ハンと別れ、ホテルに戻ってからも、仁の残した日記や資料を眺めていた時も、ベッドに入った頃にも、冬希の頭の中からそれが消えることは無かった。
ハンは何故、初対面の自分にあのような生い立ちを詳しく話したのだろう・・・・ハンにとっても、その過去はあまり人には話したいものではないはずなのに・・・・・
それにハンは冬希の父。仁の名前を知っていたような素振りだった。ハンは冬希が仁の話しをしている時驚きの表情が見えた気がした。
ハンは過去から逃げずに自分の足で歩いてきた。自分とは心の強さが違う・・・・・
(天から降る星か・・・)
記憶のどこかにある、しかしそれが明確に出てこない歯がゆさを感じながら、冬希はハンが今、どのような魂をガラスに吹き込んでいるのだろうと、その姿を想像していた。
函館に着いても天気は変わらずどんよりとした曇り空だった。
人ごみの中から抜け出し駅の外に出た冬希は、家からプリントアウトしてきた地図を片手に歩き始めた。
冬希がとったホテルは駅からさほど離れてはおらず、歩いてもさほど時間はかからない場所だった、少なくとも冬希はそう考えていた。
駅が近いこともあり、人通りは多いほうだと冬希は感じた。旅行者らしいカップルや家族など地元の人ではない者ともよくすれ違った。
冷たい風が吹く中、凍って滑りやすくなっている場所を避けつつ、大きな道路から少し入り組んだ場所にそのホテルを見つけた。
自動ドアから中に入り、暖房の効いた空間へと足を踏み入れた冬希は、羽織っていた上着を整え、カウンターへと向かいチェックアウトを済ませた。予定の時間には少し早かったが、部屋の準備はできており、鍵を受け取った。
何の変哲もないシングルベットに荷物を降ろすと、冬希は自分もベッドに体をおろした。
荷物の中から手帳を取り出す、仁が残した手帳だ。
今はもう3分の1ぐらいまで目を通している。仁の手帳には行った先々でおさめた風景の様子や現地のことが書いてあり、さながら旅の本やコラムを読んでいるかのような楽しさがある。その中でここ函館は少し違う、仁は明らかに、自然の風景をとるポイントを回っているのだが函館はそれに結びつかない・・・・
冬希はそれを確かめるため、今日、夜に函館山へと登るのだ。
冬希は手帳をナップに仕舞うと、必要なものだけそれに入れベッドから腰を上げた。時はまだ夕方に差し掛かってもおらず、時間はある。
ここへ来る時、進むにつれ冬希は潮の香りを感じていた。それは気のせいかもしれないし、行き道にあった何処かの店から香ってきたのかもしれない、でも確実に海へと近づいている実感が、冬希に潮の香りを連想させた。
冬希はより海に、潮の香りを確かめるため、港、ベイエリアへと向かうことにした。
海から少し離れ、冬希は赤色のレンガ倉庫が立ち並ぶベイエリアへと足を運んだ。レンガ倉庫や周りは色鮮やかにライトアップされ、多くの人で賑わっている。
冬希はお土産や雑貨を扱う倉庫へ足を踏み入れた。ここに来るまでに見たことのあるようものから、ベイエリア限定の綺麗なアクセサリーを見て回るだけで、冬希は楽しくなっていた。東京にいたころとく、愛海にウィンドウショッピングの話を聞いたが冬希には長い間、商品を見て回るだけの行為の楽しさがわからなかったが、今なら少しよく分かる気がした。
冬希はここではお土産を買わずにおくことにした。荷物が増えると後々困る。
ウィンドウショッピングと呼べるかどうかは分からないが、冬希はそれを楽しみ、店を出た。まだ函館山の夜景には早い時間だが、ロープウェイ乗り場までは歩いて行くつもりだったし、途中教会も見ていくつもりなのでさほど悪い時間ではなかった。
「おい、後ろ気をつけろよ」
丁度レンガ倉庫を横切ろうとしたところで男の声がした。
雰囲気的にも冬希にかけられた声ではなかったが冬希は声のする方に思わず目を向けた。
そこには黒いセーターにジーンズ。オレンジのエプロンをした女性が今にも尻餅をつこうとする瞬間だった。「ドスン」という小さな音とともに女性はお尻から地面に落下し、手にしていた荷物は前のほうに崩れてしまっている。
「大丈夫ですか?」
冬希は自分の方に転がった観光客向けの土産物らしい缶詰を拾うと、女性のほうへ歩いていった。
「す、すいませ・・・!」
尻餅状態から顔をあげた女性は、缶詰を渡そうとした冬希の顔を見るなり、急に慌てるように立ち上がり、隣の倉庫へ飛んでいってしまった。
「????」
何が起こったか分からず、冬希はただ缶詰を片手に取り残されてしまった。
「おい、なにやってんだ。すいません、失礼をしました。」
さっきの男の声がする。振り向くと女性と同じエプロンをした男性が駆け寄ってくる。
「すいません・・・うちの者が失礼な態度を・・・・・・って・・・・冬希か?」
冬希も相手の顔に見覚えがあった。幼いころの記憶の面影が今、目の前にいる男性に重なる。
「もしかして、智也か?」
「やっぱり冬希か、マジかよ、こんなとこで会えるなんて、何年ぶりかな、旅行できてるのか?」
「ああ、そうだよ、小学校以来か」
「そうだな、ちょっと待って、お―――い優、お前も来いよ。」
「優?」
「ああ、美優だよ朝賀美優。一緒だったろ、憶えてないか?」
「美優・・・・・あっ・・・ああ、朝賀・・・」
冬希は、ぼんやりとだが朝賀美優の名前を思い出してきた。しかしあまり冬希の印象には残っておらず顔がはっきり出てこない。それに比べ智也の顔は記憶と共にしっかりと記憶されている。式那が引っ越してから出会った1番よく遊んだ友達だったからだ。
「そうか、親父さんの同じ旅をしてるのか」
坂の上から見る函館はすでに夕暮れに差し掛かっている。
思いもよらない出会いをした冬希は、智也と美優と共に、いくつもの教会が立つ大三坂方面へと足を運んでいた。
「うん、でも全然知らなかったよ、智也が北海道にいたなんて」
「ああ、ここが気に入ってな、もうここに来て2年近くにはなるかな」
智也と冬希の後、5メートル辺りに美優が2人の後をついて歩く。智也は時折美優を気にしているのか後ろの様子を伺っている。
冬希も気になり後ろを振り向くが、美優は決して冬希と目を合わそうとはしない、いや、美優は通り過ぎる人や、すれ違う人にも極力見ないようにしていた。それはまるで全ての人を拒絶、とまではいかないが拒否しているかのようだった。
しかし、智也は別のようだ。
「それに朝賀さんと一緒に住んでいるなんて」
「まあ、いろいろな、さっきは本当に悪かったな、あいつちょっと人付き合いが苦手なんでな、久々にあったお前にびっくりしたんだと思う」
「いや、全然気にしてないよ、」
小学校のころ、席が近いというだけで、冬希と智也は友達になった。智也は活発で、明るい性格で周りには多くの友達がいた。その中でも冬希とは何故かそりが合い、また家も近い方だったのでよく遊んだものだった。
美優は逆に物静かで、一人でいることが多い子だった。思えば美優はその頃から人を避けていたのかもしれない。
「2人でこの町に」
「まあ・・・そうなるのかな、性格には二人できたわけではないけど、ほとんど同じかな」
「でもすごいな、自立しているなんて」
成長した智也は少し顔の堀が深くなっていたが、昔の活発な面影を見せ、体格のよい体はとてもたくましく見えた。
「それに全然知らなかったよ、その、二人がそうだったなんて」
小学生の頃を思い出しても二人が特別仲がよかったという記憶はない。
三人はチャチャ登りと呼ばれる坂の上で足を止めた。坂道を登るのは大変だったがここからは函館も町並みが見て取れる。
美優は函館ハリストス正教会のところで足を止め、教会を眺めている。
「中学にあがる時、二人とも東京から越したろ、その後また中学であいつが転向してきたんだ」
中学になる頃、二人は引越しをし、地元の中学には通えなかった。その後の智也たちを冬希は全くしらない。
「それにしても忙しい旅だな、明日にはまた函館離れちまうなんて、五穣郭とか見ていかないんだろ」
「まだ、回りたいところがあるからね」
「そうか、残念だな、せっかく久々に再会できたってのに、こんなこと本当にないぜ、すげぇ偶然だ」
「そうだね、本当に。また智也に会えるなんて、北海道に来たかいがあったよ」
札幌、小樽、函館。いく町々で冬希は誰かと出会っている。それも運命的とも取れる出会いを。
「俺も夜の搬送がなかったらな、食事や夜の函館を案内してやれるのに」
「仕方ないよ、仕事があるなら、無理はさせられないよ」
話し込んでいるうちにほとんど日が落ち、辺りは暗くなっていた。智也は美優に声をかけた。
美優は智也の声を聞くと冬希達がいる上のほうへ歩いてくる。やはり冬希には視線を向けようとはしない。
冬希は少し気になっていた。以前から一人でいることの多かった美優の印象は正直、あまり残っているとは言いがたい。しかし、ここまで他の人間を避けるような女の子だったか?
坂を上がってくる美優を待ちながら、冬希たちは明かりが目立ち始めた函館を眺めていた。
函館で、美優と二人。土産物などの搬送の仕事をしながら暮らしている智也は冬希から見れば自立した人間に見えた。それは両親を失い一人暮らしをしている冬希自身と比べてみてもだ。
智也と美優。自分の中では結びつかない二人が今は互いに支えあって生きている。
美優がもう少しで冬希のいる辺りに着こうとしたとき、
「あっ・・・!」
一瞬美優の体が宙に浮く。
「優!」
美優は雪の残る函館の坂に、足を滑らして転倒してしまった。手に持っていた手提げからは入っていた荷物が少し散らばってしまい、ベイエリアでの出会いのように尻餅をついてしまう美優に二人は急いで駆け寄る。
「大丈夫か優」
智也はすぐさま美優のそば行き、起き上がろうとする美優の体を支える。美優は大丈夫と少し照れくさそうに笑っていた。
それは今日冬希が初めて見た美優の笑顔であり、表情が変化したといえる瞬間だった。
冬希はそんな二人の間には入りにくく、また美優のほうも大丈夫なようなので、散らばった手提げの荷物を拾っていた。
手提げの中には、手帳、文庫、筆記具など貴重品や壊れやすいものは入っていないようで、冬希は外に出たそれらのものを一つ一つ拾っていった。
その中の一つに定期を入れる見開き形の革のカード入れがあった。外に出たときの衝撃で開いた格好となっており外側には美優の免許証がいつでも表示されるようははさまれている。
冬希は何も気にせずそのカード入れをほかの物を拾うように手に取った。いつもは閉じている内側が開いており、拾い上げてみるとその部分が目に入った。
開いた側の右、今冬希が見ている上の部分には美優と智也が並んでいる写真が挟まっている。二人とも今の姿とは変わりがなく、智也は笑顔だが美優の表情は少し硬いが、やわらかい印象を与える。
そして反対側には何かのカードが入っていた。
(大学か何かの証明カードかな?)
「やめろ!!!」
その瞬間、美優の声が響いた。その声の大きさに冬希の体は固まり、智也も驚いた様子だった。
だが、智也は冬希が拾い上げたカード入れを見ると何かを理解したようで、冬希に声をかけた。
「冬希、それは・・・・」
しかし、智也の言葉より早く、美優が動いていた、美優は今までの感情を見せない表情とは違う、怒りを滲ました表情で、足早に冬希に近づくと、冬希からカード入れを無理やり取り上げ、冬希を顔にらみつけた。
「見たのか」
「えっ?」
「見たのかよ」
何が起こっているのか理解できていない冬希は、ただそう聞きかえす事しかできず、美優の鋭い眼光に固まっていた。
「おい、優」
智也から声をかけられても美優の表情は変わらなかった。今までの美優からは想像できないその鋭さと口調はまるで周りの時間を止めているようだ。
「優、冬希はたまたま見えちまっただけだよ、あいつは荷物を拾ってくれたんだぞ」
「だからなんだよ」
美優は智也の言葉も聞かず、冬希が拾った他の荷物も置いたまま、冬希たちに背を向け坂を下りていってしまう。
「優!」
智也は冬希に少し待つように頼むと美優の後を追いかけ行ってしまった。一人取り残された冬希は美優がおいていった手提げの中身を手に立ち尽くすことしかできない。
(な、なにをあんなに怒っていたのだろう)
美優があれだけ感情をむき出しにしたということは、何かあるはずである。冬希は自分がとった行動を思い返してみる。
(美優さんが転んで・・・僕が荷物を拾って・・・カード入れを拾ったとき・・・・っそうだ、カード入れ!)
冬希は美優の革のカード入れを思い出す。美優の態度はあのカード入れを冬希が手にした時から変わっていた。
(あのカード入れ、写真とカードが入っていた。それを僕が見てしまった時、美優さんはあんなに・・・・それに美優さんは「見たか」とか言っていたし)
冬希がそこで思い浮かべたのは智也と美優の二人の写真だった。カード入れに入れているくらいだからよほど大切にしているのだろう、詳しいことはわからなかったが冬希はそう感じた。
(あの写真はきっと美優さんの大切なもので、僕がそれをかってに見てしまったから?)
周りは闇に包まれ、美優もそれを追いかけていった智也の姿も闇に消えてしまい、二人がどうなったかはわからない。
智也は坂の上から函館の町を見回してみる。海を眺め智也たちと出会ったベイエリアの辺りは昼間のディスプレイに光が灯り、ライトアップされている。
智也と美優はあのベイエリアを中心に土産物などの荷物の搬入をしている。
(美優さんは、智也に対しては違う。やさしいというかやわらかい、そんな内面が出てきているみたいだ・・・)
智也と美優の間には何か、他の人が入り込めないところがある。それは再会して間もない冬希のも感じ取ることができる。しかし、それが何なのか、二人になにがあったのか、それは冬希にはわからない。いや冬希はそれに、自分が踏み込んではいけないのだと思っていた。
いや冬希はいつも誰にだって踏み込もうとはしない。
「おーーい冬希」
いつの間にかより坂の上に来ていた冬希を見つけ、智也が駆け上がってくる。美優は見当たらず一人のようだ。
「はぁはぁはぁ・・・悪かったないきなり、あんなことになっちまって、分けわかんないだろ」
肩で息をしていた智也は呼吸を落ち着けながら、冬希に謝った。その顔は複雑そうだ。
「いいよ、別に、僕のほうこそ勝手に中身をみてしまったから、無神経だったかな」
「あれは、たまたま見えちまったんだろ、すでに開いていたみたいだしな・・・・なぁ、やっぱり中身見えちまったのか?」
「う、うん」
冬希は二人が写っていた写真を思い浮かべる。
「そうか・・・・あれは優の、美優の一番きつい所を形にしたようなもんだからな・・」
(美優さんのきつい所・・・?)
「なあ少し歩きながら話さないか、ついでにロープ乗り場まで案内してやるよ」
智也はより複雑、困ったような顔をしていた。
冷たくなった函館の坂を、冬希と智也は歩いていた。
冬希の少し先を歩く智也は何も言わない。何から話すかを考えているようだ。そのため冬希も話しかけづらく、二人の間には言葉のない状態が続いた。
ロープウェイ乗り場までもしかしたらこの沈黙が続くのでは、と冬希が思い出していたとき、突然智也が足を止めた。
「お前、アレ見てどう思った」
「ど、どうって?」
冬希には智也と美優が二人で、美優は少しぎこちなかったが幸せそうに並んでいる写真にしか見えなかった。
「あれはさ社会とか、共同体・・とかいうのかな、そういう中で生きていく美優という人間を証明・・・いや違うな、認識させ、美優がその中でやっていこうとしています、というのを教えるためにあるんだ」
(生きていく・・・あの写真が?)
「でも美優には違う。美優にしてみれば、あれは自分はおかしいと、ほかの人間とは違うと、それを正式に表した形でもあるんだ。だからあいつはあのカードをできるだけ人には見せたがらない」
(カード・・・?)
冬希には智也の話がわからなかった。冬希の見た写真と智也の話が繋がるとは思えない。
「でもあいつがこの世界で生きていくのはあのカードは必要となるところが出てくる。自分の傷をさらけ出すような証明がいるんだ」
「証明、何を?」
「あいつはうまく割り切れない。受け入れることができないから、そうだよな・・・美優が弱いとかじゃなくて俺でもそうなるよ、心と体が逆になっちまうなんて」
「心と体が逆?」
繋がっていない、智也の話と冬希の考えにはあきらかな相違がある。冬希は自分がカード入れを拾った時のことをもう一度よく思い出して見る。
そのとき冬希の視界に最初に入ったのは、二人の写真が入っていた部分で、両開きのもう片方、冬希が手に持ち学生証かなにかと思ったカードが入っていた方はさほど気にはしていなかった。
(カード、智也はカードと言った)
冬希には智也と美優の写真の方が印象に残っていたのだ。
(もしかしたら・・・いや、たぶんそうだ)
(智也は勘違いしている、そして僕もだ)
「智也、あの・・・・」
「ん、なんだ」
「いや、その・・・実は・・・僕が見たのはそっちじゃないんだ」
「そっち?」
智也は冬希が何を伝えたいのか良くわからないといった顔をしている。あたりまえだ、冬希もどう説明しようか考えながらしゃべっていた。
「だから・・・・そう、僕が見たのはカードのほうじゃなくて写真の方なんだ。二人が写っていた。確かに何かのカードも反対側に入っていたけどよく見ていないんだ。
だから・・・僕は美優さんが怒ったのはその写真を見たせいだと思っていたんだけど・・・」
実際には違った。智也も冬希に言われて理解したらしい。智也と美優はカード。冬希は写真。別のものをお互い注目していたのだ。
「なんだ、そうか・・・そうか」
智也は少し気を落としたようで表情も暗い。勘違いをし、よけいなことまで話してしまったから
「その、ごめん。もっと早く話しておけば」
「いや、お前は悪くないよ、俺も美優も勘違いしていたんだからな」
はははっ と笑う智也。しかしその笑顔にはいつもの明るさはない。
「それでその・・・さっきの話なんだが・・・・」
「う、うん」
心と体が逆。智也が言った言葉とこれまでの話の筋で、冬希にもある仮説が浮かんでいた。
「聞かなかったことにしてくれ。といってもここまで来たらな、一応優にも断りを入れているし」
(そう、もしかして美優さんは・・・)
「なあ、冬希。性同一性障害って知っているか?」
冬希も聞いたことはあった。
性同一性障害。心と体の性が違ってしまうこと。体は女性でも心、自分自身を男性と認識しているまたはその逆の状態になってしまうこと。
冬希には遠い問題であった。冬希の知る限りその悩みを抱えている人間はおらず、冬希自身そのような問題を感じたことはなかった。
しかし今、あまり関わりがなかったとはいえ自分の知っている人間がその悩みを抱えていることを知って冬希は少なからずショックを受けた。
そして智也は、
「あいつはもともと内気なほうだった。小学校の頃そうだっただろ。」
智也は夜の函館を見ていた。
「そのときはまだあまり意識はしていなかったらしい、でも中学に上がってからは・・・」
子供であり、しかし、意識は確かに大人へと進んでいく。思春期への入り口へと入る頃、美優はそれを意識せずにはいられなかった。
「本当はもっと前から、小学生のころから感じていたのかもしれない。でも美優はそれを見ようとしなかった。押し殺して、自分の心の性を見ようとしなかった、でも中学に上がって優はそれをはっきりと感じてしまった、自分の本当の性を」
「周りには必死になって隠してきたみたいだけど、自分自身には隠しきれないからな。中学ってさ、小学校とは違うだろ雰囲気が、内気な部分もあってさ、男子と女子が共同の場で女子には馴染めず、かと言って男子とも合わない。あいつはいろいろ怖がって周りを遠ざけた」
中学生の美優は辛かっただろう。いろいろな悩みを抱える頃、周りの目を怖がり誰にも相談できない。そんな思春期を美優は生きていた。
「高校になると男女問わず、人を拒絶するようになっちまった。あいつは自分の性をうまく受け入れらない、自分の性を認識していながらそれがおかしいのではじゃないかと。周りと違う自分と、それを見る周りを怖がっているんだ
冬希にはわからない。美優の本当の気持ちは、葛藤は。それは冬希の心と体の性が合っているからだ。だから冬希に美優の心がわからないのはしょうがないのかもしれない。それを美優は怖れている、わからないのがしょうがないということを知っているから。
「今、日本では美優のような人の心の性別を認める法律はあるよ、でも美優はそれを適用していない。あのカードは美優が※性同一性障害であることを証明するIDなんだ」
「美優はあのカードを使おうとはしない、いつも耐えながら女性を演じている。でもどうしよもない時、あのカードで自分を見せなくちゃいけない」
それでもあまり役に立たないこともあるけど、そう呟く智也。
美優が自分にあれだけ怒りを表した訳を、そして遠ざけていた理由を冬希は理解した。
人を避けていれば、目がなければ自分に嘘をつき女性のフリをしている必要はない。美優の葛藤が少しは和らぐのかもしれない。
(でも・・・・)
智也は違う。
美優の智也へ対する態度は違う。
「でも、美優・・・さんには智也がいるんだね」
何も考えず、不意にでた言葉だった。今智也から話を聞けば、美優が冬希を、人を避けていることがわかる。しかし、美優が智也にむける顔は周りへの拒絶とは違う。安心し、信頼している相手への安らぎすら感じさせた。
それは智也と美優が時間をかけ築いてきたものなのだろうと冬希は思っていた。
「・・・・・・・・」
智也はなにも言わなかった。その沈黙が自分がまた、の心の深みに無断に入り込んでしまったことを冬希に悟らせた。
「美優と再会したのは中学2年、3年のころクラスが同じになった。」
智也の声は変わらない。感情を表に出さないようにしている。
「あいつのことを本当に知ったのは高校になってからだ」
5年近くにはなるのだろう二人が本当に出会って。
「俺は・・・・・・あいつと一緒に生きていたい。あいつは・・・優は俺を慕ってくれている・・・・いや・・・・」
「依存しているのかもしれない」
依存。愛や恋愛よりも強く、そして逃げられない。まるで薬や病のような言葉に冬希は息を飲んだ。
(・・・・なのか・・・これは)
冬希は心の中で呟いた。しかしそれを言葉に出すことはできない。智也は心も体も男だ。そして美優の心も・・・それは
「いろいろあってさ、男とか女とかじゃないんだ、俺と優は」
そう智也は美優のことを優と呼ぶ。そしておそらくそれを呼ぶことを許された数少ない人。
それは冬希の知らない智也だった。冬希の知るいつも明るい幼い頃の、いまさっき再会し喜び合った友人の智也でもなく、誰かと時間を重ね生きてきた、何かを誓う一人の男。
そんな智也は冬希から遠い人間、懸命にもがき、何かを守ろうとし、前を見ている。自分より強い人間。
「いやだよな・・・・何かに酔っていなけりゃ自分の嫌なところばかり思い出す・・・」
そのときの智也の声はどこか悲しそうだった。
ロープウェイは中々の込み具合だった。
冬希とほとんどが観光客であろう乗客を乗せ、ロープウェイは函館山の山頂へと登っていく。
(あれは・・・・愛なのか?)
心の中で呟いた言葉を、冬希はまた繰り返し呟いていた。
立ち止まり、智也と話した場所からすぐロープ乗り場には着いた。ロープ乗り場まで見送りに着てくれた智也はいつもの笑顔、冬希の知っていた智也で見送ってくれた。
「また、連絡をくれよ、こっちにいる間でもいいからさ」
あの話を聞いてすぐの冬希にはその笑顔を、どう感じているのか良く分からなかった。
冬希は智也と美優、二人の間に何があったかは分からない、恋愛感情があることも。それでも二人の間には他には無いもの、絆のようなものがあるのだと冬希は感じた。
美優は智也に対する態度、そして智也も美優のことを大切に思っている。それは智也の話から強く感じ取ることができる。
しかし冬希にはある言葉が浮かぶ。
「依存・・・・・」
周りを拒絶し続けている美優にとって、唯一心を許せる人、信頼する存在が智也なのだろう。
『男とか女とかじゃないんだ、俺と優は」
もし二人の間に恋愛感情があるならば、それは心の性が男性同士の恋愛ということになる。
美優の外見は普通の女性である。どちらかといえば端正な顔立ちの少し線の細い女性の姿である。そのためか冬希には二人の恋愛を想像しても違和感をあまり感じない。
しかし、美優にとってはそれがコンプレックスなのだ。それは冬希には感じ取ることはできない。自分の体と心の大きなギャップが美優を苦しめる。そして今の美優には自分の性を公表する勇気や体を変えようとする意思の強さも持ち合わせていない。そのため周りを遠ざけ自分を守ろうとする。しかしその中で現れたのが智也だ。
自分を受け入れてくれた存在、受け入れられる存在。美優が智也を求めるのは当然だろう。
人は孤独に弱い存在だから。
「・・・・・・・」
乗客たちが賑わい始める。かなり高い位置まで上ってきたらしく、函館の夜景も広がり始めているのだろう。
しかし冬希は夜景の広がる窓を背にし、それを眺めようとはしなかった。
そしてもう一つ、冬希には強く感じたものがあった。冬希がこの気持ちを感じたのは二度目だ、小樽でハンと出会って。
冬希には智也の背中は大きく見えた。初め、智也が函館で美優と二人で生活をしていると聞いたときも、冬希も今は一人で暮らしているが、それとは違う自立している智也を冬希は自分より大人びているように思った。しかし、今はそれだけではない。
智也は今、美優と共に生きようと必死になっている。それが困難や周りから認められなくても、それでも智也は進んでいこうとしている。それはハンが、大きな不幸にあっても、まだ漠然としたものでしかない目標でも、前に進もうと努力している姿を感じ取ったとき感じたもの、自分には無い強さ、意思。
冬希には心のそこから何かを奮いだせるような力が無い。彼らのようには生きていない。
車内に山頂への到着が近いことを知らせるアナウンスが流れる。気づけばもう頂上だ。
冬希はナップから仁の手帳を取り出し、函館の記述があるページを開いた。
最初のほうは前と変わらず当時の函館の様子や、仁から見た函館の風景、立ち寄った店などが書かれており、なぜ仁が函館に立ち寄ったのかは記されていない。
「まもなく函館山・・・・・・・」
アナウンスが山頂への到着を知らせるころ、冬希は仁が自分と同じ、函館山の山頂へ来ている所を読んでいた。
『ここに来るのはもう何年ぶりになるのだろう、学生のころ美雪と来て以来だ。美雪がどうしても来たいというのでここまで来たが、あの時、ここに来てよかったと心から思う。美雪に感謝しなければならない。
久しぶり見た街の夜景は美しかった。それはそこから広がる街の灯り一つ一つがそこにある人の生の印だからだ。人の生活には喜びや悲しみ愛や怒りがあり、それがこの地上の夜空を作り上げている。この星一つ一つが生きている光なのだ。
そんな当たりまえのことを俺はよく忘れてしまう。普段あまりこのような景色に目を向けようとしない自分に思い出させてくれた。
あの時、俺はあの夜空をうまくカメラに収めることは出来なかった。今それが出来るかはわからないが、美雪や冬希に、いい土産を撮ってやりたい』
外に出ると、風が痛みを感じるような冷たさで冬希を刺してきた。
外から函館の夜景を一望できる展望台には冬希のほか、一緒にロープウェイに乗ってきたほとんどの人が出てきているようだ。
そこから見る函館は圧倒的だった。
左右には暗い海が広がり、輝く街灯りは見渡せる限り続いているかのようで、冬希に寒さを忘れさせた。
街の灯りは様々な色で中には動いているものある。多くの光が照らし合い、その美しさを増している。
「きれいだね」
「冬は空気が澄んでるからかな」
冬希の横にいた二人組みの女性が話している。
冬希も感じていた。綺麗だと。そしてこの美しさが、たとえ人工的とはいえ、人の生活の光り一つ一つが集まって作り出された自然の美しさの一つであるということを。
冬希はデジカメを取り出しピントを合わせてみる。手袋があるとうまくシャッターが切れないので外してみるが、寒さで手が震えてしまう。
撮れた画像を確認するもピンボケが強くうまくいかない。悠里や愛海、光次郎にも見せてあげたいのだが、携帯のカメラではこの景色を伝えきることは出来そうにない。
『それはそこから広がる街の灯り一つ一つがそこにある人の生の印だからだ』
『この星一つ一つが生きている光なのだ』
仁の残した言葉が冬希の中に浮かんでくる。
この光の一つ一つに人の生活がある。そしてその中に智也や美優の生きる光もあるのだ。
智也たちは今どの光だろう、まだ仕事の途中かもしれない、もう家に戻っているのかもしれない、それとも外で買い物をしているのかもしれない。冬希はそこにある二人の光を考えていた。分かるはずも無く、ここからその光を見つけることなどできはしないが冬希はその光を探し、強く輝き続けることを想っている。
冬希も、そして母、美雪も仁の函館の夜景を見たことはない。
※性同一性障害であることを証明するIDは現在まだ発行などはされていないそうです。小説の中の設定です。